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23 October

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11 August

タロットは絵を観て言葉に、言葉を観て絵に!する創造性のある行為

タロット占い師、タロット鑑定師・・・もちろんプロです。を目指す方は、この「絵を観て言葉に、言葉を観て絵に!」ができないと話になりません。


実はこの「絵を観て言葉に、言葉を観て絵に!」は、 皆さんが幼い頃は、しょっちゅうやっていた事なのです。 小学校時代以前です。小学校の3年生ぐらいまでは、簡単にできたはずです。 例えば、雲を眺めますよね。

大人の皆さんは、天気を自動的に連想します。 雨に濡れるのが嫌だからです。 嫌であると同時に、他人に「観られる」ことを意識するからです。

子供の頃は、私は男なので、よく怪獣を連想していました。 あの雲が怪獣、バルタン星人で、あの雲はウルトラマン。 そのときの私の頭の中には、リアルな映像が映し出されていたはずです。 皆さんも同じです。 ウルトラマンがバルタン星人にスペシュウム光線を発射している映像ですね。


しかし社会人に近づくに連れて、そんな連想をしなくなってしまったのです。 だから頭が堅いんですね。柔軟性が無くなっています。 中学校時代から「美術」の授業が始まります。 小学校では「図工」でしたね。


この学校教育が、連想を貧弱にさせる理由の一つとなります。 「美術」の時間では、絵を描かせたり、デッサン、彫刻、美術史などを勉強したはずです。 しかし、両親も学校の担任までも、高校受験に美術は関係無いという理由で蔑ろにします。 ただ内申書だけが問題になるだけです。

中学校時代の美術は、「絵を観ている」のでは無く眺めているに過ぎません。 言い変えれば、単なる描写とも謂えます。 タッチや美術史の変遷には注目しますが、画家がどんな気持ちでこの絵を描いたのか?なんて誰も考えもしません。


皆さんは美術館に行ったことがあるはずです。 しかし、ここでも絵を眺めるだけです。 「この絵は好きだ」「この絵は嫌いだ」程度の感想でしょう。

じっくりと一枚の絵を二時間も三時間も観ている方は、私の記憶では誰もいません。 私は両親に恵まれました。
父は今でいうグラフィックデザイナーです。しかしパソコンが無い時代です。 すべて手書きですね。カラスペンやGペン、カブラペンなどを知っていますか? 私のそばには、絵を描く全ての物がありました。
母は昭和7年生まれで、北海道大学を卒業した才女です。 当時の日本。しかも札幌で、女性が大学を卒業することはあり得ませんでした。 しかも母は文学部で、ロシア文学を専攻していました。 また母は絵も描きます。実際に画家として多くの賞を貰っています。 よって「絵」の見方を生まれながらに知る環境に恵まれていたわけです。


私も図書館と美術館は、毎日のように通っていました。 友達と遊ぶときも、今のようなTVゲームが無いので、虫取りや輪ゴム鉄砲で遊んでいたのを憶えています。 図書館も美術館も自宅から歩いて通える距離でした。

美術館では、1枚の絵をそれこそ3時間も観ていたこともあります。 いろいろな想像を駆け巡らせるんです。 細かな絵の部分にも、画家が敢えて描いた理由があるはずです。 それを小学校の頭でいろいろ連想してきました。 「絵を言葉に。言葉を絵に。」は実は非常に難易度が高い頭の使い方です。

 逆にこれができると、受験勉強も楽しくなります。 「歴史」という授業があります。受験にも必須ですね。 皆さんは、歴史を暗記したはずです。 私は歴史を空想しました。 本能寺の変で織田信長が舞をまった気持ちを想像し、さぞや無念であり、さぞや人生のはかなさを感じたのだろうな?!とか、

ギリシャがペルシャ帝国と闘ったとき、ギリシャ人達は誇りと自由のために、命を懸けたのだろうな?!とか。 歴史が物語のように頭の中で映像として浮かんでいました。

 右脳は「ビジュアル」を認識します。音楽など芸術全般は右脳が認識します。 左脳は「言語」を認識します。数学や化学式などもそうですね。 「絵を言葉に」するには、最初に右脳に入ってきたビジ
ュアルを、膨らませて映像のように発展させなかえればなりません。 その映像をことばとして表現するのです。

実際に、音楽を皆さんはどのように表現できますか? マーラー交響曲第五番の壮大なイメージをどのように言葉にしますか? 「絵を言葉に」するには、絵や音楽、映画、演劇、文学などが、自分の右脳で実際に映像になっていなければできないのです。 だから、皆さんは絵・音楽・詩・散文・演劇・映画を説明してしまいます。 感想は「面白い」「楽しい」「美しい」・・その逆のことばぐらいしかOUTPUTされてきません。 しかも全て「抽象言語」です。


逆に「言葉を絵に」するのは、比較的容易なはずです。 絵の上手さは別としてです。 それは左脳で、ある「単語」は、ある「意味」を持つと数学的に解釈しているからです。 ここでは経験や知識も役に立ちます。

しかし、やはり「言葉を絵にできても、映像にはできません」 その最大の理由は、本当の意味で「絵」を観た経験が無いことです。 また表現するための道具・・・すなわち「ボキャブラリー」「知識」が少ないことも一因です。

タロットを読むとは、まさに「映像」のように頭に浮かんでいなければなりません。 現実世界は二次元ではありません。三次元であり四次元です。 現実世界は「絵」では無く、「映像」なのです。

ならば現実世界の問題や悩みを、アドバイするときも「映像」でなければ矛盾しませんか? 私には多くの友人・知人がいます。 しかし、私は幼い頃から友人・知人を区分していました。 よって、知識力のある者、金持ち、正確に言えばビジネスを知っている者、表現力が豊富な者。 自然とそうなってくるんですね。類は類を呼ぶです。

また自分の幼い頃の環境だけで無く、自己投資もしてきました。 自己投資とはもちろん、精神・魂に投資することと、スキルに投資することです。 どちらもお金は掛かります。 大学を出て就職してからもです。 下らない愚痴を言い合う飲み会には一切出ませんでした。 下らない事に給料を使うのは馬鹿馬鹿しいと疑いませんでした。 「付き合いが悪いな」とよく皮肉を言われたものです。 自分の上司も尊敬するに値しませんでした。 まさに愚かな小さき者としか感じません。 何も挑戦しない。何も意見が無い。 ただ上からの命令に従い、部下を従わせようともがく小物です。


私は前職時代、北大修士課程卒業後にたまたま花*に入社し、 たまたまマーケティング部に所属され 、たまたま転勤も無くマーケティング一本でした。 しかし、大手量販店やAMAZON(当時はそれほど大きくはありませんでした)・ASKULなどは、 営業とは別に販売促進でよく通ったものです。 営業と同行も多かったですね。 当時、私が三十代で部長代理になったのは、前代未聞の話でした。 まだECが一般的では無かった時代に、会社では初のECを立ちあげたからです。 係長の頃、課長に稟議を通しても、全く理解されないので、社長室の同期に根回しをして貰い、 課長も部長も飛び越えて社長に直に提案しました。これも前代未聞です。

私は「クビになっても構わない。自分でできる自信があった。」と語っていましたが、 今、思えば恐ろしい事をやったと思います。 憶えているのは、社長が「だったら、お前がやれ」の一言です。 そこでいきなりEC課ができ、課長になりました。 もちろん失敗すれば、確実に降格・左遷です。 でも時代のトレンドに乗ることができたんですね。ECの売上高が全体の20%を超え、 利益はそれ以上でした。運が良かったのかもしれません。 その功績で、東大・京大・慶応・早稲田さん達より先に上に上がることができました。 ただ嫉みや嘲笑は当然ありました。

私は必死でした。自費でグロービスに通学しましたし(やはり200万円は掛かりましたね。ただMBAコースでは無かったです。)、 Adobeのアプリもスクールに通い(こちらも全教科で100万は掛かったですね)、インターネットの全てを学んできました。 自己投資の料金は、今振り替えれば軽く500万円以上でしょう。
逆に自己投資をしない者が成功するはずがありません。


皆さんは現代社会に於いて、知識は無料と勘違いしているケースが多々見られます。 しかし実際は、知識は「お金を使って」始めて自分の血肉になるのです。 よって自己投資しない友は私にはいません。 「知識は買うもの」なのです。 「スキルも買うもの」なのです。 「私にはそんなお金が無い」という言い訳は今すぐ辞めるべきです。 生活の中で無駄な出費は必ずあります。 金持ちほど、コンセントは豆に抜くものです。

金持ちほど、買い物では「買う目的」がはっきりしています。 例えば、「シャンプーを買う」という目的でドラッグストアに行きます。 そしてシャンプーコーナーに最低5分は検討をします。 金持ちほど自動車などステイタスの類に拘りません。安全に走れればそれでいいのです。 フェラーリやポルシェを買うのは、小金持ちです。 金持ちほど数字を常に把握しています。 事実、貴方の財布には1円単位で幾ら入っていますか? 私の友人達は皆、謂えます。


同時に絵や言葉の映像化には、知識だけでは無く、経験と語彙も必用です。 経験は「とにかくやってみる」ことに他なりません。 やってみて性に合わないなら辞めればいいだけです。 私のゴルフみたいなものですね。 経験は来るものでは無く、自分でやってみる・行ってみる・飛び込んでみることです。


 当然、経験が舞い込んでくることはあります。 私の両親、妻、愛する息子を自動車事故で同時に亡くしたと
き。 「なぜ、俺がこんな目に遭うんだ!!!」と叫び、運命を呪ったものです。 しかし今になって考えて観ると、あの大事件が私を一層高見に押し上げたことになっていると気がつきました。 


語彙(ボキャブラリー)は豊かなほど、映像をリアルに生々しく、まさにそこで本当に観ているが如く表現できます。 語彙を高めるには、読書が一番としか謂いようがありません。

 ただ私は類語辞典も読んでいました。調べるのでは無く「読んでいた」んです。 実際に今持っている角川の類語
辞典は四冊目です。 大学時代から読み始め、三冊ボロボロになっていましました。 類語辞典を読もうとしたのは、私が大学で哲学を専攻したこともそうですし、自己表現するのに最も遇っているが「ことば」だと分かったからです。

長々とまた書いてしまいました。 結論を言います。 「絵を言葉に」「言葉を絵に」するには、右脳と左脳の連携が必須であり、 それを具体的に行うのは、「映像」のように頭に浮かぶことだ!ということです。 そのための具体的な方法が、「生活のあらゆる物・出来事をよく観察する」「観察した後は考える事」「経験を自分から取り入れる」「語彙を豊かにする」 となるわけです。

そして自己投資せずに、これらを習得しようと考える者は、結局、人生を無駄にしています。 たった一回の、たった一つの人生なのに。 もう二度とこの人生はやって来ないのに。 それが分からないのですね。そして死に際で後悔します
が、もう遅しです。

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